樺太 戦火逃れて
出版にさいして
二〇一八年はアジア太平洋戦争後から七十三年が経つ。敗戦後制定された日本国憲法は、主権在民、基本的人権の尊重、戦争放棄を謳うたい平和主義を掲げた。中国、東南アジア、南洋諸島、樺太、沖縄などが戦場と化し、本土も原爆や空襲をうけ、国内外夥おびただしい犠牲者の上の尊い平和だった。団塊の世代が子どもであった時代は、そこかしこに戦場の傷跡が色濃く残り、身近に話も聞いていた。貧しくとも平和な時をすごし、いつしかそれは当たり前の生活になっていった。
今その基盤がゆらいでいる。安全保障関連法が改正され、海外での集団的自衛権が認められたのだ。また一昨年、樺太関係資料館(設置者・北海道)の移動展開催時、「ここってどこ? 日本ですか」と問う若い人がいた。七十一年前にどこで戦争があったのかも知らない世代が、既に多くを占めるに至った。
一九六〇年二月、千葉県茂原の地に、女性学習サークル「葦の会」が誕生した。人間尊重を学び、思考、自己表現、実践をし、人生の主人公になろうと研鑽するものだ。助言者の藤井輝備先生は、「敗戦の責任感もあって一切を無償で」(『たまゆら』より)指導に当たられた。大阪万博の一九七〇年、葦の会は薄れゆく親世代の戦争体験を知ろうと、かつて国民学校の教師であった助言者婦人のまさ子先生に、会報への執筆を依頼し学習した。その『戦争とわたくし』は後にタイプ印刷で本となった。
植民地樺太の旧制中学で教壇にあった藤井先生は、一九四七年七月十四日、日本文学大辞典四冊をリュックに北海道旭川へ引き揚げ、記憶の新しいうちにと詳細な手記を翌八月に書き上げた。それが八月九日ソ連侵攻の日から九月十一日までを描いた『爆風──旭川にて』である。
中学生の学徒勤労隊が学徒戦闘隊に変わり、激しい空襲にあう。親とはぐれた生徒を連れ、百キロもの逃避行。妻は小学生の娘二人を連れて避難民の群れに入り、山脈を越えていく。やっと知る敗戦。人々に元の居住地へと強い帰還命令が出た。女性たちはソ連兵に目をつけられる恐怖に晒され続ける。艦砲射撃と火災により変貌した街で占領下の生活が始まり、二年後やっと引き揚げ船に乗ることができた。戦禍の下、誠実に懸命に生きた夫妻、家族の姿が残像として残る。
あまり知られていないが、沖縄と同じく地上戦があった樺太(現ロシア連邦)。そのソ連国境近くの恵須取でともに教師をしていた夫妻が、それぞれの体験をありのままに書いたまるで合わせ鏡のような二つの記録である。戦後の始まりの一つが、ここ樺太であったこと。また戦中戦後をとおして、「人生の四あずま阿や 」をつくり若い人たちの力になろうとした夫妻の思いも深く心に刻みたい。
藤井輝備先生後年の書簡文の一節に、「かねて私の中にあった疑問がいよいよ形を整え、確信にまでなった事に気が重いのです。御指定のあの期間は、それ無しには解明できません。ひと言だけあなたに言います。『青年期を服従に終始した武官の、文官に対する凄絶な復讐です』これがなければ我々の敗走は別な形になっていました。(中略)突き上げて来そうなので、敢えてハガキにしました」(『たまゆら』所収)とある。かつて学徒戦闘員であった、教え子への返書だ。
『爆風──旭川にて』の背景にあった重要な事柄と思われるので、ここに記す。
葦の会は昨年十二月、五十七年十カ月の活動に終止符を打った。自前の会館の土地、建物を売却し、すべてを社会的還元のもと五カ所に寄付をした。その一環としてこの本を上梓する。戦争を知らない世代に読み継がれることを切に希望する。