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消えた学院  ~ 日中共学を実践した「青島学院」の三十年を追う ~

内  容

日本人と中国人が共に学んだ学校が中国にあった!

「青島学院」という名の学校は皇室、日本政府、陸海軍の支援を受けながら終戦までの30年間にわたって日中友好の教育を推進した。

1万人を超える日中の卒業生たちは数少なくなったが、今も交流を続けている。

当時の様子を示す図版79点と外務省外交資料館など67点の資料を駆使して日中関係を解き明かしています。

はじめに(本文より)

  今から百年前、中国の山東省青島市で鹿児島出身の吉利平次郎が日本人と中国人との共学の学校を創設した。

 青島学院という名の私立学校は、高松宮殿下や昭和天皇からの御下賜金を拝受するなど皇室や政府、陸軍からの支援を受けながら、中国人と日本人あわせて一万人を超える卒業生を出した。

 終戦による閉校までの間、吉利平次郎の教育理念に賛同する中国人も多数現れ、教員や学院の理事として日中共学を推進した。それは、民間レベルでの日中友好の実践だった。

 第一次世界大戦後の国策による青島移住、不安定な政情による日本人の一時的な総引揚げ、その後の青島への復帰(再移住)、中国との戦争、終戦による混乱、閉校に伴う日中両国の在学生の転入手続き、日本への引揚げなど青島学院は、激動の三十年間を送った。

 大正時代から昭和初期にかけて、日本国内が関東大震災や二・二六事件などで社会的にも政治的にも揺れ動くなか、一方の中国も辛亥革命により中華民国という名の国家が形としては成立したものの、蒋介石や毛沢東、軍閥などの権力争いにより統一した国家ではなく大きく揺れ動いていた。こうした二つの揺れ動く二つの国家の狭間で、青島学院は、日本人と中国人相互理解と融和を求める教育を推進した。日中両国の国策のぶつかり合いのなかで、日本人が創設した私学、青島学院は、相互理解による友好親善を追求した。

 日本人と中国人を同じ教室で共学させることで両国の相互理解を実践した青島学院。

 相互理解の授業は、例えば「日本」という共通の漢字を日本人には「リーベン」と読ませ、中国人には「にほん」と読ませることから始まった。

 大正から昭和にかけて、日本政府は、国策として韓国(朝鮮)や満州、上海などに多くの学校を設立し現地で日本人の教育を行ったが、青島学院は、私学でしかも日本人と中国人の共学を実践する極めて異色の学校だった。

  終戦を迎え青島学院創設者吉利平次郎は、中国政府から永久に無償租借した多くの土地や建物を残して帰国した。このなかには青島学院商業学校だけでも二万三千坪の敷地、建坪が千坪の校舎、それに学校の多くの備品類があったが、そのまま残して故郷の鹿児島に引揚げた。

 引揚げ後、吉利平次郎は、日本各地に引揚げた日本人在学生の在学証明や卒業証書の発行と国内の学校への転入学手続きに追われた。そして引揚げから半年後ついに病に伏した。亡くなる一週間前、吉利平次郎は、孫の吉利醇(千葉市在住)に「百年後の中国は世界を制覇する。お前はその目でしっかり確かめよ」と語った。一九一六年(大正五年)の学院創設からまもなく百年を迎える。一九七二年の日中国交回復後、多くの日本人卒業生たちが若き日に過ごした学舎を私は訪れ、ありし日の学院を懐かしんだ。

 青島学院商業学校(青島市台西鎮)の校舎は、数年前まで青島第一中学校の校舎として使われていたが、残念ながら改築され、今は石造りの講堂だけが昔の面影を残している。しかし、青島学院実業学校(青島市館陶路)の校舎や校庭は、昔のまま残され、現在青島第十中学校として使われている。

 青島に住む中国人の卒業生は高齢になったが、今も同窓会を開き旧交を温め、同窓会の名称は、中国の代表的な作物の「稲」と日本の代表的な木「桜」を合わせて「桜稲会」と名付けている。

  鹿児島出身の吉利平次郎が創設した青島学院は、波動の時代をどう歩んだのか?国策と国策の対立や衝突の中でどんな教育を推進したのか?その教育を学ぶ両国の生徒たちは、どのように受け止めたのか?日中両国の友好親善を求めて日本人と中国人を共学させた青島学院の三十年を追う。

著  者

米村 秀司

1971年同志社大学卒。1971年、KTS鹿児島テレビ放送入社。報道部長、企画開発局長などを経て現在、鹿児島シティFM(株)専務取締役。

目  次

はじめに


第一章
青島英学院の設立(大正五年)から文部省認定(昭和三年)まで
散逸した資料 / 青島の歴史
青島占領 / 対支二十一ヶ条の要求
青島渡航のきっかけ / 青島英学院の創設
青島学院実業学校 / 校舎の貸下げ
昼間の商業学校開設 / 日中共学の実践
大学設置構想 / 抗日運動と青島返還
守備軍の撤退と生徒減 / 総量事館の支援
創立十年間の回顧 / 文部省認定の在外指定学校へ


第二章
日中緊迫下の学院教育から学院創立二十周年記念祝賀会(昭和十一年)まで
山東出兵と日中の衝突 / 抗日運動と青島居留民団の活動
国民党政府の圧力/創立十五周年祝賀会
日本製品宣伝隊・学生隊商の派遣 / 学生隊商報告書と現在
新校舎建設 / 落成祝賀式
高松宮殿下拝謁 / 創立二十周年祝賀会 / 青島学院の教育理念


第三章
日中戦争へ / 鹿児島で再開準備
復帰と開校 / 支那事変と絋宇高等女学校の誕生
近衛内閣声名と日中関係 / 過激化する抗日テロと青島学院生
高松宮殿下に再び拝謁 / 戦火の中で
高商新設へ / 高等商業学校の認可
中国人卒業生の中日親善 / 吉利平次郎の日中共存共栄論
憩いの家建設 / 大東亜戦争へ
昭和天皇より御下賜金 / 牧野伸顕日記と侍従武官長の記録


第四章
引揚げと生徒の転入学
日記を追う
子供と孫たちは今


第五章
青島の歴史保存と現代
青島学院卒業生を訪ねて / 青島日本人会設立二十周年
青島学院校舎は昔のまま
日中共同歴史研究と呉宝林さん(商業学校十一期生)の論文
日本人会の歴史保存活動 / 中国書籍が青島学院紹介
青島会の活動 / 中国に残る日本歴史史料
学院資料集

消えた学院

四六判(128×188ミリ)
/ 288頁

定価(本体1,600円+税)

ISBN 978-4-8391-
0802-1 C0023

2011年7月7日発行

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